身体

この世界での、身体とは、すなわち。

 


ある日私は、怪我をした。
1限に遅刻しそうになり、急いで自転車を走らせていた。
大学の駐輪場に入ろうとしたその瞬間、段差にタイヤが引っかかり転倒してしまった。
右脚を引きずられるようにして、剥けてしまった。

 


まるで四角いチーズに、斜めからナイフをいれたように。
分厚く、深く、それでいて無機質に、右脚の皮が、傷という切り込みの上で、浮いていた。

 

私は、ただひたすらその切り込みを、しばらく、凝視していた。
感想は一つだけ。

 

 

気味が悪い。

 

 

昔から誰もが皆、怪我をしないよう、守られている。

自転車に乗るには、免許が必要なのだ。事故を起こさないだろうと認められるまでは、何度でも試験を受けさせられる。

何故と言われても、そういう決まりなのだ。
怪我をしたら、いけないと、言われて育つのだ。社会的に、そういう決まりなのだ。

 

知らなかったのだ。
もし万が一、怪我をすると、血が出て、膿になって皮膚が崩れると、授業では習っていたのに。

 

これが、大人が、社会が、世界が隠してきた、私たちの身体の、仕組み。秘密。だったのか。

 

 

どうなっている?
わからないけれど、ただ一つ予測がつくことは。

私たちは、怪我では、命を落とすことが、できない。

もしや、首を壊されるしか、ないのか。
では、ニュースでよく見る、亡くなった人というのは皆ーーーーー。

 

私は、嘔吐した。何者かわからない身体で、何かを吐き出した。

 


この世界での、身体とは、すなわち、身体ではない。

うわむいて。

弾む瞬間。

 

お風呂でたまたま出来上がった小さな泡のように、すぐに弾けてしまう心。

 

中身がない。

と、虚しく、思うべきか。

 

弾けるほど中身がつまっている。

と、楽しく、考えるべきか。

0.019 O's side(第6話)

数日間、大学に来なくなったあいつは、窓から身を投げて、この世を去ってしまった。
あいつのお母さんも、病気で…。

 

何も考えず、ただ必死に走って家を訪ねたが、俺が買ったクッキーは、ドアにぶら下げられたままだった。

 

どうして、つい数週間前までは、元気だったじゃないか。こんな、こんな数日間で…。

 

いや、どうして、ではない。理由はなんとなくわかっているのだ。
あのときの直感が当たったのだろう。証拠も何もないけれど、確信している。

 

 

誰かに、言えるはずもない。
誰かに話していたら、あいつは助かったのか?自殺なんて、しなくて済んだのか?
話したところで、誰が救われるというんだ。こんな、まるで死ぬ運命だったようじゃないか。どうなっているんだよ。

 

あいつがどうして、生まれ変わっていたことによって、19歳という若さで自ら死を選んでしまったのか、俺には全くわからない。

 

でも、生まれ変わったことが原因で、命を絶ってでも逃げたくなるような、恐ろしい状況に、追い込まれてしまったのだろう。

 

まるで、悠々と飛んでいたにもかかわらず、人間の家に設置された透明なガラスが見えずにそのままぶつかって、死んでしまう鳥のように。
とらわれたことによって、勘の鈍った哀れな鳥。まだ先がある、と信じていた矢先に、それは、終わる。
あいつは一体、どんな念にとらわれてしまったのか。

 

俺は、抱えて、生きていくのか。
やりきれなくて、悲しくて、寂しくて。

重苦しくて、逃げ出したいような、それこそ、いなくなってしまいたいような。

 

 

あいつの秘密は、ずっと、俺だけの中で、生きていく。あいつは、もう、消えてしまったままで。

 

(完)

 

0.019 O's side(第5話)

コンダを保健室に運んでから、俺は家に帰ろうと電車に乗った。


ぐるぐると、頭の整理がつかずに、脳みそから嘔吐しそうな感覚だ。

0.019。一体なんの…なんの数字なんだ…。そういや俺たち19歳だよな。何か関係があるのか…。

 


突然、頭の中に、閃いたような、危険を知らせるブザーが震えるような、衝撃が走った。急に、思い当たった。

数日前、何かの授業の前、休み時間に知らない女子たちが後ろの席で、こんなことを話していた。

 

「ねぇ、生まれ変わりってあると思う?」
「なに突然、どうしたの!」
「ううん、なんかね、ネットでたまたま見ただけなんだけど……世界の中でほんの少しだけ、生まれ変わることができる人がいるんじゃないか、って言われてて…」
「えー、そんなことあるわけないじゃん!」
「うーん…そうだよね…」
「でも、少しだけって何人くらいが生まれ変われるんだろ」
「それがね…………」

 

別に、その会話の内容自体が気になったわけではない。でもそのあとの数字………。

 


「人口の0.019%だって」

 


そうだ、そうなんだ、あいつ、もしかして、生まれ変わっているんじゃないか。きっと、最近調子が悪そうなのも、それに関係していて、きっとそうだ、どうしたらいいんだ。

 

単なる直感だ。でも、仲がいいからこそ、わかる。これは真実だ。憶測ではない。わかるんだ。なんとなくだけど…。

 

 

俺は、あと数十歩で家に着くというところで、呆然と、悄然と、立ち尽くしていた。

 

(続く)

0.019 O's side(第4話)

今日は月末の30日。心理学概論の授業の教室へ、俺は早めに向かった。

 

コンダは来ていた。


俺は隣に座ったとき、心の底から安心した。安心したのだった。あんなに曇っていた気持ちが嘘のようだった。会えなくなるなんて、ただの杞憂だった。よかった…。

 

とはいえ、あまり大げさに喜んでもコンダに不審がられてしまうと思ったので、お前体調悪いなら言えよ?と軽く声をかけておいた。

 

俺たちはいつも通り、多少ぼーっとしながら、教授の話を聞いていた。

 

「……えーっと、これは余談ですが…人間は無意識のうちに、後悔や焦りを感じていると、それが何らかの形で夢に出てくるわけですね。深層心理学における夢分析は…………」


へー。確かにレポートを溜め込んで焦る時期だと、教授に怒られる夢とか見るもんな。そんなことを考えていた。

 

 

そのとき、隣から、急に息切れを起こしているような、苦しそうな音が聞こえた。

 

その瞬間、俺は胃が締めつけられるような、気がした。
コンダ、お前やっぱり具合悪いのか。どうして言ってくれないんだ。本当に大丈夫なのか。何があったんだよ。

 

「おい、おいコンダ!どうした?大丈夫か!?」

 

授業中であることも忘れて、俺は叫んだ。コンダは気を失っていた。

 

とりあえず、保健室に運ばなきゃ。
と、コンダの腕を持ち上げたとき、その腕の下にあったノートの端のほうに、震える文字で何か、数字が書いてあった。

 


「0.019……?」

 


俺はこの数字を見て、何か、思い出したことがあった。けれど、焦っていて、掴みかけたヒントを、脳内で逃してしまったのだった。

 

モヤモヤと、もどかしい気持ちを抱えながら、周りの席の人たちと一緒に、コンダを保健室へ運んだ。

 

(続く)

0.019 O's side(第3話)

 

昨日はコンダが倒れたと聞いて気が動転してしまった。今日の授業は全部終わったし、何か見舞いに買っていこう。

 

本当はケーキのほうが喜ぶかもしれないと思ったが、もし出てこなかったりしたら困るので、クッキーにした。


なんとなく、今日は会えないと、直感した。本当になんとなくだけど。

 

 

 

インターホンを鳴らしたが、やはり今日は誰もいないようだった。郵便箱に、買ったクッキーの袋をぶら下げておいた。

 

予感、直感が当たったことに対して、俺は目の前がグラグラと曇ったような感覚を抱く。

 

ふと、思った。
もしかして、コンダは何か…大きな病気や怪我とか…抱えているんじゃないか?と。それとも何かの秘密?何か俺に話せないことがあるのか…と。

 

 

嫌だな俺。少し友達と会えないからって、疑うようなことを考えたりして。

 

次コンダに会うのは、あいつが倒れたあのときと同じ曜日。同じ授業だ。来てほしい。来いよコンダ。

 

俺は曇り空に包まれながら、帰路についた。

これから起こることを、まるで予測しているような、天気だった。

 

(続く)

0.019 O's side(第2話)

俺が保健室に着いたのは、もうコンダが出て行ったあとだった。

 

保健室の先生が言うには、出て行った時のコンダはまだ顔色が悪く、もう少し休んでいけと先生から言ったらしいが、振り切って行ってしまったらしい。

 

「……な…んだよあいつ、どうしたんだよ…大丈夫なのかよ……」

 

俺は不気味なような、恐ろしいような気持ちになり、思わずひとり言をこぼした。

 


保健室をあとにした俺は、帰り道、これから、なんとなく、たったひとりぼっちになってしまうのではないかと、そんな感情に襲われた。

 

たったひとりで、これから、何かを抱えて。俺は、こんな感情を重苦しい表情で、毎日抱えながら、過ごしていくのか。

 

 

ふと。
我に返った。

 

なんだ?今のは…別に、何かあったわけでもないのに。いや、何かはあったか。コンダの体調が悪いのだ。心配で、きっと俺まで心細くなっているのだ。

 

コンダの家は確か母さんと二人暮らしだ。明日は見舞いに、二人ぶんのケーキかクッキーか何かを買って家に持って行こう。


そう決めたが、俺の心は少し晴れるどころか、嫌な水分を含んだ灰色の雲のように、重くなっていた。

 

(続く)